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長崎の平和運動

長崎、広島、沖縄の青年が集い、毎年夏に開かれる「3県平和連絡協議会」

長崎、広島、沖縄の青年が集い、毎年夏に開かれる「3県平和連絡協議会」

アジアそして世界への平和発信基地・九州――。
なかでも被爆地・長崎の同志は「ピース・フロム・ナガサキ」(平和は長崎から)を合言葉に「人類は二度と過ちを繰り返すな」との核廃絶の叫びとともに、永劫の平和創出の原点の地を自認する活動を30年にわたって継続してきた。

その至極の原点は、1957年(昭和32年)9月8日、戸田城聖創価学会第2代会長が発表した「原水爆禁止宣言」にある。さらに池田名誉会長が58年(同33年)11月15日、この平和原点の地に第一歩を印した時、「被爆の大地に真の平和の楽土を!」と、長崎が進むべき使命を示したことに始まる。

最も不幸に泣いた人こそ、最も幸福になりゆく権利がある。原爆投下という人類史の悲劇が刻まれた天地だからこそ、どこよりも平和を叫び、平和のために行動しゆく責務がある。慟哭(どうこく)の史実を過去の出来事で終わらせてはならない。

地獄の業火に焼かれ、散っていった万余の同朋の叫びを、悠久の不戦への大合唱へと転じてゆこう。そうした深い、熱い思いから、長崎の平和運動は着実に続けられてきた。

なかでも戦争を体験していない世代が中心となった青年部の平和運動は今なお社会に光彩を放っている。1973年(昭和48年)に始まった「原水爆禁止長崎集会」を皮切りとした平和集会、さらに核兵器廃絶や世界の難民救援を呼び掛ける街頭署名・募金活動、被爆証言集は5冊を数え、戦争や核兵器の悪に鋭く迫る各種の展示会等、その活動は多岐に渡っている。

近年では、「アンネ・フランクとホロコースト展」(95年)や「ライナス・ポーリングと20世紀展」(02年)の諸展示が多数の市民の共感を広げている。また88年から連続して開催する「ピース・フォーラム」では、平和のために青年として何ができるかを考え、行動を起こす「ピースワーカー」(行動者)の育成を目指し、息の長い取り組みを続けている。

さらに2000年から始まったNGOの「核兵器廃絶――地球市民集会ナガサキ」にも参画しており、世界の平和を志向するメンバーとの連帯を目指す。毎回、自主企画での展示や平和意識調査活動などを行っており、反響は大きい。

長崎平和史

九州創価学会・長崎平和史

年月日 事柄
1973 8.7 第1回原水爆禁止長崎平和集会(於:漁協会館)
反戦フォークグループ「ピースセブン」が結成
8.8 核兵器、戦争の廃絶を訴える街頭署名活動を展開(~9日)
1974 5.6 「5・3」記念平和憲法擁護長崎集会(於:国際文化会館) 700名が参加
    8.3 第2回原水爆禁止長崎集会……参加者約2500名
①青年の反戦平和意識の高揚②各国の核実験阻止のアピール③被爆体験
の継承などを一層発展させていくことを確認
反戦出版「ピース・フロム・ナガサキ」発刊
1975 5.11 第2回平和憲法擁護長崎集会
    7.31 「長崎原爆を証言する被爆1世の会」発足(幹事:渡辺源吾)
「長崎から平和を訴える被爆2世の会」発足(幹事:平野大寿)
「被爆体験を語り継ぐ会」発足(幹事:吉岡輝彦、高校生継承グループ)
    8.6 「原爆を考える映画と講演の夕べ」
    8.7 第3回原水爆禁止長崎平和集会……諸谷市長等300名の来賓参加
    8.9 「長崎が死んだ日」発刊
    9.20 ピースセブン野外コンサート
1976 5.8 第3回平和憲法擁護長崎集会
    7.29 全国縦断反戦・反核長崎展(~31日、於:NBCホール)
被爆写真、現代の核兵器、証言テープを出展
    8.1 反戦劇「平和への松明」を劇団21世紀が講演(参加者2300名)
    8.2 反戦平和集会(於:市民会館) 反戦劇、反戦フォークの後、中央集会。
沖縄・東京・長崎での反戦平和活動の報告等が行われた。5日間にわたり
一連の行事を開催、マスコミで報道されるなど反響を呼んだ。参加者6000名
1976 8.9 第1回長崎県原爆犠牲者追善法要
「焦熱のナガサキ」発刊
「ナガサキを語り継ぐ」発刊
1977 8.9 第2回長崎県原爆犠牲者33回忌追善勤行会
「ナガサキからの祈り」発刊
1978 6.25 長崎県平和合唱祭 テーマ「響け平和の賛歌」(参加者2004名)
    6.29 「軍港に降る炎~佐世保空襲と海軍工廠の記録」発刊
1979 7 ピースセブン、NHKテレビに出演
    8.9 長崎県平和祈願勤行会
1980 4.17 諫早市で「長崎原爆展」(~23日)
    5.24 長崎市で「憲法講座」
    8.9 長崎県平和祈願勤行会
1981 6.25 「佐世保空襲と長崎原爆展~戦争を知らない世代へ今語り継ぐ平和への叫び」
(~30日)  反戦出版シリーズの証言もとに写真や物品資料を展示
1982 5 長崎市で「憲法講座」
    4.25 「『私達と国連』展」の開催(~5/7 於:長崎市平和会館)
82.10.24「国連の日」を記念しての開催
    5.25 池田名誉会長、平和祈念像に献花
    6 ニューヨーク国連軍縮特別総会へ被爆2世の代表2名派遣
1983 1.26 池田平和記念碑の建立(諫早文化会館)
1984 4 アフリカ難民募金実施(県内9カ所)
    4.26 第4次ソ連青年訪日代表団、長崎を訪問……日ソの青年の間に不戦実現へ
の連帯を深めた
    7 高校生平和意識アンケート調査を実施(市内10校)
    8 長崎市で平和集会
1985 4 アフリカ難民募金を実施(県内10カ所)
    7.25 被爆40周年記念「長崎原爆と核の脅威展」
    8 平和への願いをこめて~被爆2世編「終わりはいつですか」発刊
1986 2.8 佐世保市で「平和への行動展」(~11日)
1987 7.3 第6回婦人平和主張大会(於:長崎市平和会館)
    7.31 島原市で「平和への行動展」(~8.3)
    8.6 大瀬戸町で「平和への行動展」(~9日)
    8.22 松浦市で「平和への行動展」(~24日)
    8.28 平戸市で「平和への行動展」(~30日)
    9.2 長崎市で「SGI平和行動展」(~7日 於:浜屋百貨店)
1988 5.22 アジア・アフリカ難民募金を実施
    6.17 「自然と平和との対話」長崎展(~25日 於:長崎平和会館) 2389名
    8.9 「ナガサキ・ピース・フォーラム’88」 参加者500名
風化しゆく被爆の原体験を聞き、迫り来る核の脅威に驚き、現実に起こす
べき平和運動に対し、第1歩を踏み出す機会となった
    10.2 長編詩「平和の鐘 虹光る長崎」発表
1989 8 広島・長崎・沖縄3県青年平和連絡協議会(於:広島池田平和記念会館)
    8.9 「ピース・フォーラム’89」(於:長崎平和会館)
    10.2 「子供たちは地球の未来――ユニセフ写真展」(於:長崎平和会館)
1990 5.25 波佐見町で「平和への行動展」
    8.9 「ピース・フォーラム’90」(於:長崎平和会館)
講演会「平和を考える 2人の女性の戦争体験から」(滝沢荘一熊大教授)
1990 8.10 第2回3県青年平和連絡協議会(於:長崎平和会館)
    10.19 上五島町で「平和への行動展」
1991 1.2 湾岸戦争反対書名(~2月)
    2.2 緊急平和講座「ピースセッション91」(長崎市、佐世保市)
    6.22 沖縄で3県青年平和連絡協議会(~23日まで)
    8.1 「沖縄戦の絵」展長崎展(於:長崎平和会館)
    8.9 「ピース・フォーラム’91」 (於:長崎平和会館)
    11.16 「婦人と平和を考える講演会」(於:長崎平和会館) 写真家・田沼武能氏
    12.6 高来町で「平和への行動展」
1992 2 「空き缶をミルク缶に」運動
    8.1 広島で3県青年平和連絡協議会(~2月)
    8.7 「戦争と平和展」長崎展(~16日 於:長崎平和会館)
    8.9 「ピース・フォーラム’92」(於:長崎平和会館)
講演「太平洋戦争の今日的意義を考える」 講師=梅原紘児氏
    11.12 カンボジア復興支援のボイスエイドを実施(~12月)
1993 2.28 「青年平和講座」(於:長崎平和会館 佐世保平和会館)
「メディアは踊る」 講師=岡庭昇氏
    3.17 「青年平和講座」(於:長崎平和会館 溝田勉長崎大学教授)
    7.4 「青年平和講座」(於:長崎平和会館 糸山長崎大学教授)
    8.7 長崎で3県青年平和連絡協議会(於:長崎平和会館)
    8.8 「韓国から見た日本・広島」長崎展(~30日 長崎平和会館)
    8.9 「ピース・フォーラム’93」(於:長崎平和会館)
講演会「アジアの平和と長崎 講師=溝田勉・元ユニセフ駐日副代表)
    10.17 「青年平和講座」(於:長崎平和会館 有吉長崎大学教授)
1994 5.29 「青年平和講座」(於:長崎平和会館 鐘ケ江管一元島原市長)
    6.24 沖縄で3県青年平和連絡協議会(~25日まで)
1994 8.14 「長崎県青年平和総会」(於:県立総合体育館 5000名参加)
池田名誉会長からメッセージが寄せられる
①被爆証言ビデオの製作②長崎ピースセンターの設置③国連創設50周年
へのアンケート調査④アジアの平和への具体的行動誓う「平和宣言」採択
1995 5 「国連と平和に関する意識調査」実施
調査結果は8月の日米青年平和交流団が国連本部へ提出
    8.5 「勇気の証言――アンネ・フランクとホロコースト展」(~11日 於:長崎新聞社)
    8.6 「ピース・フォーラム’95」(於:長崎平和会館)
「6000人の命のビザ」 杉原幸子氏(故・杉原千畝夫人)
    8.6 広島で3県青年平和連絡協議会
    8 被爆証言ビデオ撮影運動
    8.9 県青年部平和総会(於:長崎平和会館) 「青年部平和宣言」発表
    8.11 県婦人平和委員会、「反戦出版」を県立図書館へ贈呈
    8.14 長崎文化会館内に「長崎ピースセンター」を開所
被爆証言ビデオ112本(第1次)のライブラリー、常設パネル展示
    8.20 未来部平和総会
1996 6.18 「世界の少年少女絵画展」(~23日 於:長崎平和会館)
    8.3 「沖縄からのメッセージ展」(~9日 於:長崎平和会館)
    8.3 青年平和講座「沖縄から人権平和を考える」 保坂廣志琉球大教授
    8.7 長崎で3県青年平和連絡協議会(~9日 於:長崎平和会館)
    8.9 「ピース・フォーラム’96」 ワークショップ形式でディスカッション
    8.11 未来部平和総会(18日にも)
1997 8.17 未来部ピース・フォーラム WOMEN’Sピース・フォーラム
    11.1 沖縄で3県青年平和連絡協議会(~2日)
1998 2.21 青年平和講座「雲の切れ間から」 デイビット・クリーガー核時代平和財団所長
所長、青年平和委員会・女性平和文化会議メンバーと懇談も(原爆資料館)
    2.23 女性平和文化講座「ジャーナリズムと人権を考える」 浅野健一氏
    8.1 広島で3県青年平和連絡協議会(~2日)
    8.8 「ピース・フォーラム’98」 講演会「永遠なれ! 長崎の鐘」
永井誠一氏(永井隆記念館館長)
    10.24 長崎青年平和音楽祭(~25日 於:県立総合体育館)
    12.7 ラダクリシュナン博士、長崎で講演会「非暴力の世紀に向けて」(於:長崎平和会館)
1999 8.5 広島で3県青年平和連絡協議会(~6日)
    8.9 「ピース・フォーラム’99」 被爆体験(幸里愛子さん)
    12.13 女性平和文化講座「差別を乗り越え今、世界へ」 張 福順さん
2000 8.5 沖縄で3県青年平和連絡協議会
    8.9 「ピース・フォーラム2000」 ピースセブン・コンサート、ワークショップ
    9 「平和意識調査」を実施
    10.20 「テレジンの幼い画家たち展」(~29日 於:長崎平和会館)
    10.20 特別講演「フリードル先生と子供たちが見た夢」 野村路子氏
    11.18 「核兵器廃絶――地球市民集会ナガサキ」開幕 クリーガー所長と再会
    11.19 同集会の自主企画で「平和意識調査」の結果発表(於:山里小学校)
2001 8.9 「ピース・フォーラム2001」(於:長崎平和会館)
    8.18 長崎で3県青年平和連絡協議会(~19日 於:長崎平和会館)
長崎青年平和講座「不戦への新たな市民運動目指して」 溝口 貢氏
    12.12 全青連と3県サミットで「日中青年平和サミット座談会」(於:長崎平和会館)
2002 7.31 「ピース・フォーラム2002」ポーリング・ジュニア博士が講演(於:長崎平和会館)
    8.2 「ライナス・ポーリングと20世紀展」(~11日 於:長崎新聞文化ホール)
2003 8.9 被爆体験集「平和への祈り――長崎・慟哭の記録」発刊(第三文明社)
「ピース・フロム2003」 浜百合代さんが被爆証言(於:長崎平和会館)
    11.24 核兵器廃絶――地球市民集会ナガサキの自主企画で青年部が展示(長崎市)
    11.25 「青年平和講座」核時代平和財団のクリーガー所長が講演(於:長崎平和会館)
    12.6 女性平和委員会(婦人部)が連続講座。第1回講座を開催(於:長崎平和会館)

反戦出版

九州創価学会・平和
終戦から59年。戦争を知らない戦後生まれの世代が人口の7割を占める今、「反戦・平和」の精神の継承は、次代を担う青年の最大の使命である。

創価学会の反戦・平和運動は1957年(昭和32年)9月8日、戸田第2代会長が発表した「原水爆禁止宣言」を原点とする。

人類の存在自体を脅かす核兵器の廃絶を宣言し、民衆自身の平和への行動を訴えた叫びは、池田第3代会長(名誉会長)の平和行動へと受け継がれ、さらに、生命の尊厳と自らの生存の権利を深く自覚した民衆の手によって、広範な平和運動へと広がってきた。

こうしたなか、青年部は、反戦出版「戦争を知らない世代へ」パートI、IIを刊行。74年から約11年の歳月をかけて、全80巻を完結。空襲の記録や被爆者の体験談をはじめ、学童疎開の記録、戦地での出征兵士の記録、戦時下の庶民生活など、戦争の“被害者”“加害者”を含めた幅広い角度からの証言を集めた。

登場した証言者は約3,400人、編さんに携わったメンバーは4,000人に及び、全都道府県編が刊行されている(いずれも絶版。図書館等で閲覧可能)。

このうち、長崎青年部の出版は、『ピース・フロム・ナガサキ』(1974年)、『長崎が死んだ日』(75年)『焦熱のナガサキ―8月9日』、『ナガサキを語り継ぐ』(76年)、『ナガサキからの祈り』(77年)の5冊に及ぶ。

また婦人部の反戦出版シリーズ「平和への願いをこめて」は、81年に第1巻『あの星の下に』<引揚げ編>が発刊されて以来、着実に編さんが進められ、91年6月に完成した第20巻『祖国はるかなり』<外地編>で、同シリーズが完結。500本近い手記を掲載している。

長崎の出版では、被爆2世編『終わりはいつですか』(85年)があり、世代を越えて核廃絶を語り継ぐ貴重な叫びが胸を打つ。

21世紀を迎えた今、後世に被爆の実相、戦争の絶対悪を語り継ぐため、昨年8月には、長崎の青年による被爆体験集『平和への祈り――長崎・慟哭の記録』が、第三文明社から発刊された。
これは、先の5冊の反戦出版から厳選した証言記録20本を再録。ハンディなレグルス文庫判により、次代を担う青年たちに一段と幅広く「平和の心」が届けられるようになっている。
初の体験集『ピース・フロム・ナガサキ』(第三文明社刊)の発刊からまもなく30年。本書は、今なお原爆と闘い続ける語り部たちの命の記録である。
それは未来に責任を負う青年世代が編さんに携わった「いかなる歴史の荒波にも消えない不滅の金文字」
(内田伯「証言は消えない」より)。

『平和への祈り ――長崎慟哭の記録――』

九州創価学会・「平和への祈り」
創価学会青年平和会議/編
第三文明社 レグルス文庫
価格864円

主な内容
  • オレンジ色の光ですべてが狂った
  • 三歳にして八人の肉親を失う
  • 腸(はらわた)のように赤く燃えた空
  • まさか落下傘が爆発するとは
  • 亡き人に代わり平和への努力を――ほか

被爆体験

「一人、二人と逝く同級生」

九州創価学会 被爆体験 幸里(こうり)さん
幸里愛子(こうり・あいこ)
大橋の三菱兵器製作所(1.5キロ)で被爆 
当時17歳

気づいた時にはムシロが

毎日毎日やってくるB29。そのたびに鳴り響く無気味なサイレンの音。避難開始の空襲警報が発令されると、三菱兵器の大橋工場から住吉のトンネル工場まで走るのです。

「さあ急いで、早く早く」

大きな声に、追いたてられ夢中で走り続けるのです。やっと着いたトンネル工場、ほっとする間もなく空襲警報解除。またも大きな声で駆り立てられるようにして、工場へ。

昭和19年に諌早市内の青年師範学校へ入学したものの、そのまま学徒動員の一員として長崎の三菱兵器で働いていた私たちには、こんなことが昼夜何回となく繰り返され、心身ともにヘトヘトに疲れ、口をきく者さえいません。

昭和20年8月9日11時2分、朝から発令されていた警戒警報も解除され、ほっとした瞬間でした。突然、投下された原爆は、長崎の街を灰と化してしまいました。「ピカッ」と青白い光線が光ったと思ったら、あっという間に私の左半身が焼けただれ、次の瞬間「ドカーン」という、ものすごい音とともに、天井が崩れ落ちてきたのです。

何が起きたのか分からないまま、隣にいた友は即死していました。足元には無数の死体。生き残った者もお化けのような姿で「やられた……」とうめいています。青々と繁っていた木々は根こそぎ吹きちぎられ、工場も、学校も、家もつぶれ、焼けおちてしまい、各地からきていた報国隊員、学徒動員のほとんどの人たちは、負傷し死んでしまう。悲惨極まりない修羅場と化していました。

「助けて」と泣き叫ぶ人、苦しみにうめく人、逃げまどう人、はいずりまわる人、まさに地獄絵図さながらの惨めさは、今でも忘れることはできません。

私はただ「生きのびよう、生きなければ」と、無我夢中で逃げまどうばかりでした。いつか気を失い倒れてしまいました。どのくらいたったのか、気がついた時はムシロがスッポリかぶせてありました。おそらく死んだと思われたのでしょう。口からはどす黒い血をべっとり吐き、身体は痛みで思うように身動きもできません。

早く家に帰りたい、友達に会いたいと、やっと半身を起こし、あたりを見まわした時、私の目に映ったものは、何と顔も身体も黒こげで苦しんでいる人、上半身焼けただれ寒さに震えている人、かぼそい声で水を求めている人など、たくさんの人がゴロゴロしているのです。私は恐ろしさでいっぱいでした。

翌日の午後になって救援列車に乗せられ、やっと佐世保に着き、家路へのバスに乗ろうとしたところ、服はボロボロで顔や手は焼けただれているため、事情を知らない運転手は「汚いから乗せない」とのこと。胸を締めつけられるような惨めで悲しい思いでした。

家についた私は「警察より 愛子行方不明の連絡あり 探しに行く 父」と黒板に書かれた父の字を見て「私は生きている。生きのびることができたのだ」と、うれしさで涙があふれ出ました。

11日の朝方帰った父は、家に入るなり涙をポロポロ流し、私の姿さえ見えなかったそうです。聞くところによれば、諌早までしか汽車は通らず、仕方なく私の母校に寄り、そこで私が佐世保に帰ったと、知らされたそうです。

もう聞けない友の歌

九死に一生を得た私は、昭和21年に結婚することができました。でも、被爆者には子供はできない、生まれても片輪だと新聞に発表され、毎日毎日、心の安まる日はありませんでした。

幸い4人の子供に恵まれましたが、悲しいことに娘たちの体には、成長するに連れ原爆症の症状が出てきたのです。しかも後年、娘たちが出産した孫たちの体にも……。未熟児で生まれた二女の子は生後35日で亡くなっています。

忌まわしい“宿命の血”をのろうばかりでした。そして通院、看病に駆け回るうちに、私自身も倒れてしまいました。白血病でした。白血球数は3万を超え、極度の貧血、体重も34キロに衰弱。医師は「長くて3年くらいしか生きられないだろう」と宣告しました。やせおとろえた身体をもてあまし、苦しさのために死んでしまいたいと思うこともたびたびでした。でも母に早く死に別れていた私は「娘たちだけは苦労させたくない。石にかじりついても生きなければ」と、がんばりました。

同級生たちは次々と亡くなっていきました。きれいな声だったHさんは、疲れきった私たちにいつも歌を歌ってくれました。でも好きな歌も歌えなくなり、悲痛な声だけを残して死んでしまいました。また被爆当時、外傷一つなく元気だったTさんは、たくさんの負傷者を看護し救ってあげたのに原爆病に倒れ、かわいい子供や犬を残して、苦しみにあえぎながら死んでいったのです。

こんな悲惨なことが、いつまでも続いてよいものでしょうか。私は憤りでいっぱいです。本当に身にしみて戦争の呪わしさが感じられてなりません。

宿命を使命に

その後、縁あって創価学会に入会(昭和38年)。戸田城聖(とだじょうせい)第2代会長が「原水爆禁止宣言」(同32年)を発表されていたことを知り、大変に驚いたものです。

それは、核兵器が人類の生存の権利を脅かす魔ものであり、「それを使用したものは悪魔である」との思想を全世界に広めるよう青年に託されていたのです。さらにその遺訓を胸に、世界に平和の発信を続ける池田名誉会長と出会い、私の心は大きく開かれていきました。被爆を“宿命”と受け止めるのでなく、自らの体験を語り継ぎ、平和を築くための“使命”に転じなければならないと、心から誓ったのです。

それまで、被爆体験は貝のように黙して語らなかった私でしたが、折あるごとに子や孫たちへ、さらに修学旅行で長崎を訪れる学生たちにも体験を伝えるまでになったのでした。

21世紀を迎えた今日でもなお、アメリカをはじめ核保有国が悪魔の兵器使用を計画しているとの報道に怒りが込み上げてなりません。私は、そんな愚かな指導者に言いたいのです。
「ほんの数分でいい、被爆者や子孫の苦労を考えてみてください!」と。

自分のことばかりでなく、他者を思いやること。その連帯が地球を包む時、「戦争」の二字は、必ず「平和」の二字に変わるのですから。(要旨)

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