戦争は魔の所業。だからこそ一人の生命守る〝不戦の砦〟を
八幡西王者区・本城支部小山ナツ子さん
終戦から70年の節目を迎える。〝記憶の風化〟は加速しているが、だからこそ戦争の悲惨さや残酷な事実は、未来へ、次世代へと絶え間なく語り継がなくてはならない。本連載では4回にわたり、戦禍をくぐり抜けた人々に、平和への誓いを語っていただく。
人の命が、目の前で瞬時に奪われる空襲の恐怖。そのむごたらしさは、筆舌に尽くせません。
私は戦時中、3度の空襲に遭いました。最初は、1945年(昭和20年)3月、学徒動員で大刀洗飛行場の戦闘機整備の任に当たっていた時でした。当時、18歳でした。
背後から突然、「ズドドドーン」「ドカーン」という地響き。私は爆風を受け、全身が宙に浮いたと思うや、体を地面にたたきつけられていました。
右手の指を吹き飛ばされた人、爆弾の破片が顔に刺さって即死した人、火だるまになり、もがき苦しむ人……。言葉にできない凄惨な光景が広がっていました。
その後、大分県の豊後竹田駅の近くで、機銃掃射に遭いました。
国鉄の教習生として勤務中、寮の同僚と列車に乗車している時、前方の山陰から敵機が姿を現したのです。
容赦なく打ち込まれる弾丸の嵐。とっさに私は、座席の下に潜り込みました。が、反対側の席に座っていた人々が、バタバタと倒れていくのです。車内は〝血の海〟でした。
さらに「隠れろ!」と叫んでいた寮長の頭部を、弾が貫通。その絶命の瞬間を目撃してしまったのです。
尊い命が、泡のように消え去っていきました。
北九州の実家に帰省していた同年8月8日には、爆撃機のB29が飛来。八幡の市街地は、焼夷弾爆撃で壊滅的な被害を被りました。父母と共に、焼け野原となった町を、命からがら逃げ回りました。
後日、数百人の死体の野焼きをすることになったのですが、私と母は、あまりの恐怖のため、どうしても手伝うことができませんでした。
――「戦争」という言葉に接するたび、脳裏に刻まれた生々しい惨状が、ありありと浮かんでくるのです。
戦後、結婚し、2男1女に恵まれました。次男の心臓の病に悩んでいた57年(昭和32年)、近所に住む婦人部員の勧めで、創価学会に入会しました。
今も昔も、学会の世界は幸せです。戦争の対極で、温かい励ましの絆があります。わが家も同志も、当時は極貧でしたが、〝この信心で、絶対に幸せになれる〟と、互いに励まし合いながら、無我夢中で広宣流布に歩いたものです。
戸田先生、池田先生にもお会いすることができ、100人以上に弘教を実らせてきました。
経済苦も、次男の病気も克服。88歳になる私も、肺がんを乗り越え、今も元気、元気。学会のおかげです。
それだけに、人間の生命を無残に奪い去っていく戦争は、魔の所業と断じざるを得ません。
今を生きる若い皆さんには、目の前の一人一人の生命を、どこまでも大切にしていってほしいのです。その広がりが、〝不戦の砦〟になると信じるからです。
(支部副婦人部長)
時代背景
日本の真珠湾攻撃により1941年(昭和16年)に開戦した太平洋戦争では、終戦の45年(同20年)に、米軍による日本本土への空襲が激化。九州の各地でも、多数の尊い命が奪われていった。
九州青年・婦人部の反戦出版シリーズ。1978年に出版された『恐怖の焼夷弾――福岡空襲の証言集』では、小山ナツ子さんの体験をはじめ、平和への叫びがつづられている。
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